鬱とバイロン・ケイティのワーク

2017年も残すところあと1月ばかりとなりましたね。

2016年も大変な1年でしたが、2017年はじっくり深く苦しい1年でした。

前半は、それでも頑張ろう!と一生懸命アクセルを踏んでいましたが、夏にあるできごとが起こり、それがきっかけですっかり落ち込んでしまい、それ以来あまり動けなくなっていました。

 

英語で言った方が私的にはピッタリくるのですが、depressedの状態でした。
鬱、と日本語で書くとあまりピンとこないのですが、そういう状態のことかなと思います。

 

私のことは構わないで。いないことにしてください。

深い深い闇の中で動けない状態に何カ月もいました。

心臓がバクバクいって、恐怖で身体じゅうが痛いほどゾクゾクして、いっそ死んでしまった方が楽なのではないかと思う感じ、私なんて生きている価値がなく、世の中に必要とされてもおらず、すばらしい未来も待っていないし、やりたいこともない、ただ、1日が過ぎていくのをなんとか孤独の中でやり過ごす感じを、ただ毎日感じていました。

 

そんな時、今までは友達に会って愚痴ったり、話を聞いてもらったりして紛らわしていました。
でも、今年は、それが何か違う感じがして、ひとりでこの恐怖と向かい合っていました。

こわくて、こわくて、喉の奥が冷たくて、あまりの冷たさにやけどをしてしまいそうな感覚を味わいながら、1日をその感覚と共に過ごしたり、逃げたりして過ごしていました。

 

その時私は自分を否定する思考をたくさん持っているのですが、その中で大きくあったのは、「こんな私を誰にも見せることが出来ない」という恥の思いでした。

 

心のお仕事に携わらせていただいているのに、私自身がこんなに苦しんで死にそうになってもがいていることは恥ずかしい。
いい年をしていつまでも些細なことで傷つき、苦しんでいる自分が恥ずかしい。
ずっと思考と向き合ってきているのに、ちっとも楽になれない自分が恥ずかしい。

 

恥は、私の痛みの中で大きな役割を担っています。

 

だから、誰にも言わずに一人でただひたすら、痛みを感じていました。
多くの人に使うエネルギーがなく、ほぼ人にも会わない日々でした。

そうやって外部からのエネルギーを断つことで、落ち着きを取り戻しつつあった9月末に、ケイティの娘さんのワークショップに参加することになったのは、よいタイミングでした。
この旅はそれが何であるか特定は出来ないのですが、私の大きなアイデンティティをひとつ、ぐらっと揺るがしてくれました。
(なくなった訳ではありません。ぐらぐらっと感じた感じです。笑)

 

 

そして帰国後、この旅で得た体験を振り返りつつ、かなり気持ちは落ち着いていました。
しかし、ふとしたきっかけでまたあの苦しくて、さびしくて、辛くて、痛くていてもたってもいられない、そんな感覚がやってきて私はすっかり落ち込んでしまいました。

 

「また!?おいおい、いいかげんにしてよ!」私の反応はそんな感じです。
ようやく半年かけて落ち着きを取り戻したのに、今このタイミングでこれはないんじゃない?
よし、これに飲み込まれないようにしよう。
たくさんの頭の中の批判の声も聞こえるし、心臓も痛いし、孤独で死にそうだけれど、これに飲み込まれないで平気でいようと試みました。

 

それでも、とうとうバランスが取れなくなり、信頼できる公認ファシリテーターの友人からワークのセッションを受けました。
とにかく、どこから始めたらいいのか分からない位の混乱、涙ながらに話す私に彼は、その涙はなんて言っているの?と聞いてくれました。

 

私の涙は「こんな風に感じちゃダメなのに。落ち込んじゃダメなのに。」と言っていました。

そこで、「私はこんな風に落ち込むべきではない。」それは本当?と問いかけが始まりました。

 

この問いかけをして、大分気持ちが楽になりました。

置き換えのひとつに「私はこんな風に落ち込むべきだ。」というものがありました。
そしてその理由は、落ち込んでいるから、そしてその落ち込みを誘導している私を批判する声は、私に聞いてもらいたがっているから、でした。

今までは、批判の声が聞こえたらすぐに感じないように他のことに逃げたり、平気なふりをしたり、はたまた怖がったりしていましたが、その声を受け入れて聞いてあげることはしてきませんでした。だって、私を批判する声は怖いから、危険だから、そう信じてきたから。

 

これは、先日書いた「自分に負けない」の記事の続きのような感じです。
「自分を批判する声に負けない」
私の中の批判を怖がる部分が今、細かく具体的にどうしたら良いのかの、処方箋を欲しがっています。

その答えは、やはり自分の中にあります。
落ち着いてゆっくりと自分の中の声を聞くことが大切です。

 

でも、恐怖を感じているとき、難しいですよね。そんな時は、アドバイスや説教をしない、そして気持ちのいいことばで慰めてくれない、そんな人のサポートを受けてください。

アドバイスや説教が役に立たないのはもちろんですが、その場しのぎの優しいことばや慰めも実は長期的に見れば役に立ってこなかったのではありませんか?じっくりとあなたから出る答えを一緒に聞いてくれる、引き出してくれる、そんな方に話を聞いてもらってください。

 

さて、私の話に戻ります。
批判の声が聞こえてきたとき、私がしようとしていたのは、

その声が本当だと信じない。その声の内容を信じない。

だったのですが、実は、

その声を怖がらない。聞いてあげる。

ということが抜けていたようです。

 

これは、小さい頃に親に「やるなって言っているのに、何度も同じことして!何度言ったら分かるの!?」というように叱られたときに、

1.その内容を信じてしまう。(私は何度言われても同じことをしてしまうバカで、ダメな子)
2.その声を怖いと思ってしまう。(分かっているのに、同じことをしてしまうことを止められない、それを何度も繰り返し批判されるのが恥ずかしいし、嫌だ、怖い。)

だから、「分かってるよ!!!」と反抗してしまう感じと同じです。

 

でも、親の「何度言っても分からない子」は、本当は私ではありません。
親の中の私のイメージです。だから、いくら親が「あんたはバカだ!!」と言ってきても、それを信じなくていいのです。

そして「あんたはバカだ!」と言われ続けても、私がそれは自分のことだと信じなければ、怖くありません。
だから、お母さんはどうしてこんなことを私に言うのかな、お母さんは私がバカだと伝えたいのか、本当は何か違うことを伝えたいのかな?それともお母さんは苦しいのかな。

そうやってお母さんが苦しいのだというメッセージを理解出来たら、「ごめんね。」ってことばが出てくる気がします。
私の行為で苦しく感じるんだね。

だからって私の行為が変わるわけではないかもしれないけど、お母さんの声を受け止めてあげられる。

 

 

それと一緒なのかもしれない。

自己批判の声を、おびえずに、受け止めて聞いてあげる。
今は、それしか私に残された道はないような気がします。

 

そんなこんなで、鬱とワークについての動画を調べていたら、この動画をみつけました。

 

久しぶりに、このビデオを私が翻訳しながら皆さんと鑑賞するオンラインのイベントを行おうと思います。
そして、このビデオに出てくる思考を皆さんと一緒に問いかけていきたいと考えています。

皆さん自身の、深く落ち込んだ時の頭で何度もループしている思考を持ちよってもらってもかまいません。

 

 

深く落ち込んだ時、助言も、慰めもない中で、それでも私たちは大丈夫なことを一緒に探求してみませんか。

 

バイロン・ケイティの言葉を聴く会

 

吉田あきの個人セッションを受ける

 


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