Open Your Mind, Open Your Heart

吉田あきのブログ

罪悪感が人生を生きづらくする

罪悪感があると、生きるのが辛いです。

それがどんなに小さい罪悪感でも。

 

罪悪感は何かというと、自分の本質とずれた言動をとったときに生まれるものではないかと思います。

罪悪感からは逃れることができません。

唯一出来るのは、逃げずに向かい合うことだけです。

責めるということとは違います。

 

「自分はこれこれこういうことをした。」そのせいでこんなに胸が痛い。

そのことをきちんと受け入れること。

 

 

これをせずにきたので、何かの機会で自分の人間性を疑われるような刺激を受けると、私たちは反応しまくります。

 

 

罪悪感からは逃げずに向き合う。

このことを2018年の私のテーマとしようと思います。

 

このことについてはもっと色々語りたいけど、同時にそれぞれが問いかけの中で答えをみつけてほしい重要なテーマです。

しばらく寝かせてみてシェアしたくなったらまたご紹介しますね。

 


今後のイベント情報

 

バイロン・ケイティのワークを学ぶ2日間 2018年3月10日(土)11日(日)

バイロン・ケイティのワークを学ぶ2日間を3月に開催します。

人生を変える問いかけをあなたも始めてみませんか?

詳細は以下のページをご覧ください↓

ワークショップ東京


 

バイロン・ケイティのことばを聴く会 オンライン 2018年2月14日(水)20:00~21:30

バイロン・ケイティのファシリテーションを吉田あきの訳と共に聴きませんか?

2月は愛がテーマです。詳細は以下のページをご覧ください↓

バイロン・ケイティの言葉を聴く会

 

みなさんにお会いできることを楽しみにしています!

吉田あき


「じっと待つ」という生き方

こんばんは。

昨日位から私はずっと怒りのエネルギーを感じています。
正直、ムカついています。

 

すごく腹が立って、すごく腹が立って仕方がありません。
でも、腹が立ってやり場のない怒りを持て余す、という感じではありません。
すごく清々しい感じなのです。
腹が立つ感じをひとつひとつOK!と言いながら受け入れている感じなのでしょうか。
大人の面倒くさい怒りではなく、ピュアな怒りだからなのか、なんなら少し可愛い感じです。

 

この怒り、昨日のブログにも書きましたが、ずっと土の下に埋めて自分の中にはないことにしていました。
でもずっと存在した、私の「攻撃性」です。

 

待つ。待つ。待つ。 待つ。待つ。待つ。

これは、ある状況を問いかけていたところから出てきました。
ある日私は最近起きた出来事に対して、胸の奥の方がえぐれて空洞が出来て咳込むほど身体が反応していました。

それに関してジャッジメント・ワークシートをたくさん書いてみたのですが、どれもなんだかしっくりこない。
そこで、ワークのヘルプラインに電話してみることにしました。

(ヘルプラインについては、後半で書きますね。)

 

すごく素敵なファシリテーターさんにファシリテートしてもらい、ゆっくりと身体の声を聴いていきました。
すると、その問いかけの中で、「良い子にしていたら気付いてもらえる。いつか分かってもらえる。私に出来るのはただ待つだけ。」という私が出てきました。

 

その子は、一生懸命人に合わせて、怒らないように、いつも平和をもたらすことが出来るように、自分の感情をコントロールして、その場の空気を整えようとして、そうやっていつか「そこにいて、ずっと平和をもたらしてくれたのは君だったんだね。ありがとう!」と気付いてもらえるのを待っていました。

 

でもそうやっているうちに、自分がしたいことはもやもや~っと分からなくなり、
人に怒られないように、人を怒らせないように注意を払うばかりとなり、
人生ものすごく生きにくくなってしまっていました。

 

それが問いかけの中で出てきて、待つことは、誰のためにも、自分のためにも、世界のためにもなっていなかったことが分かり、なんだ待たなくてよかったんだとその子がプンプン怒ってます。
良い感じに怒っているので、怒らせておいてあげようと思います。笑
ずっとたまっていた怒りだからね。うんうん。感じようね、って感じです。

 

あとね、問いかけで出てきたリビングターンアラウンド(生きる、実践する置き換え)に、

「彼女は私のことが好き」という文章が出てきました。

 

小さい頃って、友達と喧嘩した時に、「もうあきちゃん嫌い!」って口をきいてくれなくなっても、どこかで「○○ちゃんは私のことが好き」って分かっていたなということをその置き換えの例を探しているときに、みつけました。

 

大人になったら、ものごとはもっと複雑になり、一度嫌われたら二度と取り返しがつかなくなったように思っていましたが、大人も見た目が大人なだけの子どもだから。それを思ったら、大人だって一緒だな、と思いました。

 

その人は私のことちゃんと好きだな、って分かったから。
「あきちゃん大嫌い!」って怒っているお友達を、自由に怒らせておいても大丈夫だし、「まぁまぁいつまでも怒ってないでさ、ちょっと出てきて遊ぼうよ。」と気軽に声をかけられそうだなと思ったワークでした。

 

 

あと、これはどこかで関係あると思うのですが、紅白で平井堅さんと一緒に出演されていたダンサーの大前光市さんのことをとりあげた番組を観ました。

なんだかムカつきました。憧れとか、すごいな、とか、なんて不幸な、とかではないのです。

なんだかすごく腹が立ったのです。

もちろん大前さんにではありません。

それが何なのか、まだ分かりません。でもなんだかこのムカつきも楽しいのです!

そこにどんな私の気持ちがあって、なにが解放されたがっているのか、また私に出逢えると思うとワクワクします!

ちなみに大前さんは本当にすごい方だと思います。ご覧になれなかった方はこちらをご覧ください。

NHKオンデマンドで観れるようです。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586013/index.html

 

 

 

3月10日11日にワークショップを行います。

まだ情報をアップ出来ていませんが、場所は押さえています。

ご興味ある方はご連絡ください。

aki@openyourmind-openyourheart.comまで。

 


ザ・ワークヘルプラインについて

バイロン・ケイティのワークの公認ファシリテーター及び、何年ものワークの問いかけを続けてきてヘルプラインでみなさんの探求のお手伝いをできると認定されたファシリテーターたちが無料で提供する問いかけのサポートサービスです。

http://www.instituteforthework.com/itw/content/helpline

ヘルプラインを受けるためには、既定のいくつかのお約束事を理解し、同意する必要があります。
(現在日本語のページは残念ながらないのですが、今後翻訳される方向で話が進んでいます。)

同意すると、今ファシリテート可能な人のスケジュールが出来ます。
そこに載っているスカイプや電話番号、メールアドレスに連絡をしてファシリテートしてもらうことが可能か確認を取ります。

日本語のできるファシリテーターがいついるかはお約束出来ないのですが、見てみてください。
私もたまに活用します♪
ドイツ語しかできないファシリテーターに、4つの質問と置き換えの部分だけ英語で問いかけてもらって探求したこともあります。

「私は英語が出来ないからヘルプラインが使えない」それは本当でしょうか?

 

 

 

それではよい夜を!今日は太陽が雪に反射してきれいな一日でしたね。

吉田あき


本当はすごく怒っている

本当はすごく怒っている

感じないように気付かないように丁寧に土の下に埋めてきたけど

本当はすごく怒っている

 

自分の純真さを笑った人に

自分の愛を軽く扱った人に

自分を捨てていった人に

 

自分を変だと笑った人に

自分を怖がった人に

自分を力で抑えつけた人に

 

自分を檻の中に閉じ込めておいて

鍵は開けていった人に

 

自分がそこにいるのは

そこにいるしか選択肢がないからだと

思わせた人に

 

自分より才能があってキラキラと輝く人に

不用意なことばでザクッと人を切り捨てておいて

「私を捨てないで」と甘えてくる人に

 

本当は怒っている

 

そのことから逃げることが心のヘイアンなんかじゃない

きれいなことばなんかいらない

 

ただ抱きしめて

その怒りを押し殺して泣いている自分を

 

 

aki


自分の中の次元格差

次元格差ということばが適切なのかどうかは分かりませんが、最近感じていたことをことばにしてみようと思います。

 

私は小さい頃から傷つきやすく、すぐに母親のやさしさやなぐさめがほしい子供でした。

(でも、そうじゃない子供っているのかな?)

そうやって泣いて母のところに行くと、3人も子供がいて時間に追われている母にはゆっくり私の気持ちを受け止めてくれる余裕はなく、最初は慰めてくれてもしばらく経つと「しつこい。早く泣きやみなさい。」とむしろ怒った口調で言われました。

姉たちにも、「なにかあるとすぐ泣くんだから。泣けば良いと思ってるんだよね~。」なんて言われて、私は愛を求めて泣くことは自分の弱さでいけないことなんだと信じるようになったようです。

 

そういう過去の信じ込みがあったからか、私はずっと、弱い自分を恥ずかしいと思っていました。

私が心理学を勉強し、カウンセリングやセラピーを学び自分に活用してきたのは、いつかそんな傷つきやすい自分が消えていなくなることを目指していたからです。

 

「苦しむ私が消えること」が私の目指すところでした。

 

その為には、苦しみの原因となっている自分の思考を片っ端から消していかなければいけないと思っていました。

 

 

そして今は

ワークを続けてきた今は、「苦しむ私がいたっていいじゃないか。」と思うようになりました。
だから、苦しみの原因となる思考も別に消そうとしなくても良いと思うようになりました。
自分の思考をものすごく優しく迎え入れることが出来るようになりました。

 

ちょっと脇道にそれますが、思考はそもそも勝手にやってきます。

カフェでふと流れてきた音楽を聴いて悲しくなる。

とか、

結婚式の二次会でビンゴゲームでどんどん人が賞品をもらっているけど自分のビンゴ表がちっとも穴が開いていかないのを見て、なぜだかとても悲しく惨めになる。

とか、

理由は分からないけれど悲しい感情を感じるとき、その悲しみの原因となっている思考を私たちは知りもしないことがあります。

ということは、思考を私たちが選んでわざわざ持ってきている訳ではないのです。

だからそれを信じて苦しむ私がいても、苦しむ私を責める必要もないし、思考を持っていることで私を責める必要もない。

 

 

思考は問いかける。でもそれは苦しみを消すためじゃない。

理解するため。話を聴くため。誤解を解くため。

そうすると、思考は勝手に解けていく。だってもう存在する必要がなくなったから。

 

これが、分かってとても楽になりました。

 

 

安心感

今はその「分かった」感は常に私の中にあり、私の苦しみや思考が起きても大丈夫な感じが強くなっています。
かつては、「苦しんでいる私」の意識の方が強かったのが、「分かった私」の意識の方が強くなってきているのを感じています。

 

しかし、だからといって現れてくる思考を信じ、反応し、苦しむ私がいなくなった訳ではありません。それは日々現れて、私に「あなたはこんなことを信じていますよー。」と教えてくれます。

 

でも、これは現れると「大丈夫~。」という感覚とあまりに違う強い刺激なので、結構驚きます。
大地震が起きたかのように感情的に持っていかれて、急に「大丈夫感」は全部なくなってしまったかのような感覚に襲われます。

 

すると、とっても怖いんですよね。やっぱり自分は「苦しむ方」だったのではないか?「大丈夫な方」はまやかしだったのではないか?と思うようになります。

 

そして、一生懸命あの「大丈夫な感じ」を取り戻そうとしてもがきます。
でもね、やっぱりあの「大丈夫な感じ」はその下にいつもずっとあるんです。たまに見えなくなるだけで。
どちらか一方のみが私ではなくて、どちらも私なんです。両方いて良いんです。

 

この自分の中にある次元の格差をどうことばで表したらいいのかなと思っていたら、ジェフ・フォスターがこんな記事をアップしていました。

 


マインドという鳥たち

思考は真実ではない。そして究極的なことを言えば思考はあなたのものでさえない。思考は声、音、提案、マインドの意見に過ぎず、常に出たり入ったりしているもの、まるで鳴いている鳥の群れの様、すべての鳥が異なる旋律、異なる意見、異なる提案、異なる見方で歌っているようなもの。君はその鳥たちじゃない。君はその鳥たちが歌うことが出来る広い開かれた空間、鳥たちを支える意識、そして鳥たちの下と間にある静けさだ。

鳥たちを黙らせようとしてはいけない(それは鳥たちをより騒がしくするだけ)、壊そうとしてはいけない(だって彼らは愛されたいと願っているあなたの一部にすぎないから)、でも歌うことを、飛ぶことを許そう、だってそれこそがあなたの力で自由だから。「私は落伍者だ」鳥は歌っていいし、「私は空間の邪魔者だ」鳥も歌っていい。「私は最も美しい鳥だ」鳥も歌っていいし、その間にいる友たちも歌っていい。意識という大きな巣であるあなたは鳥たちの楽園で、意見たちのコーラスによって決して定義されたりしないし、それと闘うこともない。それは偉大なもので、「私」で、定義されることのできないものだ。

~ジェフ・フォスター
訳 吉田あき

BIRDS OF THE MIND

Thoughts are not the truth, and ultimately they are not even yours. They are only voices, sounds, suggestions, opinions of the mind, coming and going all the time, like a flock of birds singing, every bird singing a different tune; a different opinion, suggestion, perspective. You are not the birds; you are the wide open space in which the birds can sing, the awareness that holds the birds, the silence underneath and inbetween.

Do not try to silence the birds (for that makes them sing even louder) or destroy them (for they are only parts of yourself longing for love) but allow them to sing, and fly, for that is your power, and your freedom. The “I am a failure” bird can sing, and the “I am a waste of space” bird can sing, and the “I am the most wonderful bird” bird can sing, and all their inbetween friends can sing, and you are a giant nest of awareness, a bird sanctuary, never defined by the chorus of opinions, nor at war with it, the great I AM, undefinable.

– Jeff Foster


 

必要なことは、自然と与えられるものですね。
これを読んでとてもクリアに自分で感じていたことが分かりました。

今日はそれをシェアしたいな~と思ったのでブログに書きました。

 

それでは寒ーいですが、みなさまよい週末を♪

 

吉田あき

 


過去のない世界に招待します

あなたを過去のない世界に招待します。そここそが唯一まともな場所です。
~バイロン・ケイティ


今しあわせになれますか?

あなたは今しあわせになれますか?-明日ではなく、10分後でもなく?
~バイロン・ケイティ


あなたの思考は?で終わります。

ワークという探求があなたの中に生きているとき、あなたの思考はすべてクエスチョンマークで終わります、「。」ではなくて。
そしてそれが苦しみの終わりです。

~バイロン・ケイティ


鬱とバイロン・ケイティのワーク

2017年も残すところあと1月ばかりとなりましたね。

2016年も大変な1年でしたが、2017年はじっくり深く苦しい1年でした。

前半は、それでも頑張ろう!と一生懸命アクセルを踏んでいましたが、夏にあるできごとが起こり、それがきっかけですっかり落ち込んでしまい、それ以来あまり動けなくなっていました。

 

英語で言った方が私的にはピッタリくるのですが、depressedの状態でした。
鬱、と日本語で書くとあまりピンとこないのですが、そういう状態のことかなと思います。

 

私のことは構わないで。いないことにしてください。

深い深い闇の中で動けない状態に何カ月もいました。

心臓がバクバクいって、恐怖で身体じゅうが痛いほどゾクゾクして、いっそ死んでしまった方が楽なのではないかと思う感じ、私なんて生きている価値がなく、世の中に必要とされてもおらず、すばらしい未来も待っていないし、やりたいこともない、ただ、1日が過ぎていくのをなんとか孤独の中でやり過ごす感じを、ただ毎日感じていました。

 

そんな時、今までは友達に会って愚痴ったり、話を聞いてもらったりして紛らわしていました。
でも、今年は、それが何か違う感じがして、ひとりでこの恐怖と向かい合っていました。

こわくて、こわくて、喉の奥が冷たくて、あまりの冷たさにやけどをしてしまいそうな感覚を味わいながら、1日をその感覚と共に過ごしたり、逃げたりして過ごしていました。

 

その時私は自分を否定する思考をたくさん持っているのですが、その中で大きくあったのは、「こんな私を誰にも見せることが出来ない」という恥の思いでした。

 

心のお仕事に携わらせていただいているのに、私自身がこんなに苦しんで死にそうになってもがいていることは恥ずかしい。
いい年をしていつまでも些細なことで傷つき、苦しんでいる自分が恥ずかしい。
ずっと思考と向き合ってきているのに、ちっとも楽になれない自分が恥ずかしい。

 

恥は、私の痛みの中で大きな役割を担っています。

 

だから、誰にも言わずに一人でただひたすら、痛みを感じていました。
多くの人に使うエネルギーがなく、ほぼ人にも会わない日々でした。

そうやって外部からのエネルギーを断つことで、落ち着きを取り戻しつつあった9月末に、ケイティの娘さんのワークショップに参加することになったのは、よいタイミングでした。
この旅はそれが何であるか特定は出来ないのですが、私の大きなアイデンティティをひとつ、ぐらっと揺るがしてくれました。
(なくなった訳ではありません。ぐらぐらっと感じた感じです。笑)

 

 

そして帰国後、この旅で得た体験を振り返りつつ、かなり気持ちは落ち着いていました。
しかし、ふとしたきっかけでまたあの苦しくて、さびしくて、辛くて、痛くていてもたってもいられない、そんな感覚がやってきて私はすっかり落ち込んでしまいました。

 

「また!?おいおい、いいかげんにしてよ!」私の反応はそんな感じです。
ようやく半年かけて落ち着きを取り戻したのに、今このタイミングでこれはないんじゃない?
よし、これに飲み込まれないようにしよう。
たくさんの頭の中の批判の声も聞こえるし、心臓も痛いし、孤独で死にそうだけれど、これに飲み込まれないで平気でいようと試みました。

 

それでも、とうとうバランスが取れなくなり、信頼できる公認ファシリテーターの友人からワークのセッションを受けました。
とにかく、どこから始めたらいいのか分からない位の混乱、涙ながらに話す私に彼は、その涙はなんて言っているの?と聞いてくれました。

 

私の涙は「こんな風に感じちゃダメなのに。落ち込んじゃダメなのに。」と言っていました。

そこで、「私はこんな風に落ち込むべきではない。」それは本当?と問いかけが始まりました。

 

この問いかけをして、大分気持ちが楽になりました。

置き換えのひとつに「私はこんな風に落ち込むべきだ。」というものがありました。
そしてその理由は、落ち込んでいるから、そしてその落ち込みを誘導している私を批判する声は、私に聞いてもらいたがっているから、でした。

今までは、批判の声が聞こえたらすぐに感じないように他のことに逃げたり、平気なふりをしたり、はたまた怖がったりしていましたが、その声を受け入れて聞いてあげることはしてきませんでした。だって、私を批判する声は怖いから、危険だから、そう信じてきたから。

 

これは、先日書いた「自分に負けない」の記事の続きのような感じです。
「自分を批判する声に負けない」
私の中の批判を怖がる部分が今、細かく具体的にどうしたら良いのかの、処方箋を欲しがっています。

その答えは、やはり自分の中にあります。
落ち着いてゆっくりと自分の中の声を聞くことが大切です。

 

でも、恐怖を感じているとき、難しいですよね。そんな時は、アドバイスや説教をしない、そして気持ちのいいことばで慰めてくれない、そんな人のサポートを受けてください。

アドバイスや説教が役に立たないのはもちろんですが、その場しのぎの優しいことばや慰めも実は長期的に見れば役に立ってこなかったのではありませんか?じっくりとあなたから出る答えを一緒に聞いてくれる、引き出してくれる、そんな方に話を聞いてもらってください。

 

さて、私の話に戻ります。
批判の声が聞こえてきたとき、私がしようとしていたのは、

その声が本当だと信じない。その声の内容を信じない。

だったのですが、実は、

その声を怖がらない。聞いてあげる。

ということが抜けていたようです。

 

これは、小さい頃に親に「やるなって言っているのに、何度も同じことして!何度言ったら分かるの!?」というように叱られたときに、

1.その内容を信じてしまう。(私は何度言われても同じことをしてしまうバカで、ダメな子)
2.その声を怖いと思ってしまう。(分かっているのに、同じことをしてしまうことを止められない、それを何度も繰り返し批判されるのが恥ずかしいし、嫌だ、怖い。)

だから、「分かってるよ!!!」と反抗してしまう感じと同じです。

 

でも、親の「何度言っても分からない子」は、本当は私ではありません。
親の中の私のイメージです。だから、いくら親が「あんたはバカだ!!」と言ってきても、それを信じなくていいのです。

そして「あんたはバカだ!」と言われ続けても、私がそれは自分のことだと信じなければ、怖くありません。
だから、お母さんはどうしてこんなことを私に言うのかな、お母さんは私がバカだと伝えたいのか、本当は何か違うことを伝えたいのかな?それともお母さんは苦しいのかな。

そうやってお母さんが苦しいのだというメッセージを理解出来たら、「ごめんね。」ってことばが出てくる気がします。
私の行為で苦しく感じるんだね。

だからって私の行為が変わるわけではないかもしれないけど、お母さんの声を受け止めてあげられる。

 

 

それと一緒なのかもしれない。

自己批判の声を、おびえずに、受け止めて聞いてあげる。
今は、それしか私に残された道はないような気がします。

 

そんなこんなで、鬱とワークについての動画を調べていたら、この動画をみつけました。

 

久しぶりに、このビデオを私が翻訳しながら皆さんと鑑賞するオンラインのイベントを行おうと思います。
そして、このビデオに出てくる思考を皆さんと一緒に問いかけていきたいと考えています。

皆さん自身の、深く落ち込んだ時の頭で何度もループしている思考を持ちよってもらってもかまいません。

 

 

深く落ち込んだ時、助言も、慰めもない中で、それでも私たちは大丈夫なことを一緒に探求してみませんか。

 

バイロン・ケイティの言葉を聴く会

 

吉田あきの個人セッションを受ける

 


男と女の違い

先日奥田民生さんの歌う「ラーメンたべたい」という曲を初めて聴きました。

サビの「女もつらいけど、男もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。」のところが心に響いて、この曲が好きになり何度も聴いていました。

 

まずは皆さんももしよかったらお聴きください。
(何故野球場で歌っているのか、何故木村カエラさんが出ているかの説明は論点がブレるので、ここでは割愛します。後で検索してみてください。笑)

この奥田さんの歌い方、すごく好きで何度も何度も繰り返し聴きたくなるのですが、実は、歌詞は正直意味がよく分かりませんでした。皆さんは分かりましたか?

 

そもそも男の心情を歌っているのに女ことばだし、「くたびれる毎日話がしたいから思い切り大きな字の手紙読んでね。」って誰に向けて言っているのかもよく分からないし。恋愛がテーマなのか、普段の生活で誰か伝えたい人がいるのか、あまり状況が飲み込めなくて、よい曲だけど、あまり共感出来ないでいました。

 

 

大好きな曲なのに共感できないのが嫌で、一体どういう意味を込めてこの曲を作ったのだろうと検索してみることにしました。
すると、この曲は元々矢野顕子さんの曲で、奥田民生さんは、元々の歌詞の「男もつらいけど、女もつらいのよ。」の部分だけ、男女逆にして歌っていたことが分かりました。

 

これが、矢野顕子さんバージョンの「ラーメンたべたい」です。

(ライブバージョンで最初のイントロが長いので曲だけ聴きたい方は2:20辺りから見てください。でも最初から観るとカッコいいです。)

 

不思議なもので、女性の立場からこの曲を聴くと、歌詞の意味がズシンとストレートに伝わってきました。

 

「男もつらいけど、女もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。」

「くたびれる毎日話がしたいから思い切り大きな字の手紙読んでね。」

「諦めたくないの。泣きたくなるけれど。私のことどうぞ思い出してね。」

 

おそらく人によって受け取り方は異なるのだろうとは思いますが私には、大切な男性のパートナーの心が離れていく感じがつらくて、つながりを保ちたくて話がしたくて、諦めたくなくて頑張って会話を持とうとするのだけれど、彼は話したがらない、そんな時の女性の心情を歌っている気がしました。どうにかしなくてはと焦るのに、なにも出来ない時のあの、幸せが目の前で崩れていくのをただただ何も出来ずに見ているしかない哀しくて切ない感じをラーメン食べることでなんとか乗り切ろうとしている、そんな曲に聴こえました。

 

不思議です。

奥田さんの時は、歌詞の意味がちっともさっぱり伝わってこなかったのに、です。

 

男女間で心がすれ違った時、女性はなんとか話すことで解決しようとするけれど、男性は話したがらない、あの感じが私自身の体験の中にあったからなのでしょうね。

 

 

けれども、ある男性が奥田さんバージョンの方に「原曲もいいけど、男としてはやっぱこっちだなぁ」とコメントしているのを見ると、男性には男性なりの解釈があるのではないかと思えます。

 

「女もつらいけど、男もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。」

「くたびれる毎日話がしたいから思い切り大きな字の手紙読んでね。」

「諦めたくないの。泣きたくなるけれど。私のことどうぞ思い出してね。」

 

 

分かり合えたらいいのにね。僕たち違いがあるけど、それでもともだちになれたらいいのにね。

君と話がしたいけど、うまく話せないから、手紙読んでね。

こんな風にうまくいかないと泣きたくなるけど、諦めたくないんだ、諦めたくないんだよ。

 

 

もしかすると男性側のメッセージはこんな風にも解釈出来るのかもしれません。

(男性側の解釈聞いてみたいです。)

 

 

同じことばを使っているのに、私たちが分かり合えないのは、お互いにことばに違う意味を乗せているからなのかもしれませんね。

 

女性側の立場からこの曲を男性が歌うのを聴いても、男性の気持ちはさっぱり伝わってこないけれど、

男性側の立場から男性がこの曲を歌うのを聴いたら、ばっちり分かり合えるのかもしれないです。

 

 

どちらも、同じことばをつかっているのに。

 

 

 

では、男女はそれぞれ同じことばに違う意味を乗せているけれど、本当に求めているものも違うのでしょうか?

 

女性は、話がしたい。だって理解することで相手とつながれる気がするから。

男性は、話がしたくない。だって話せば話すほど自分の気持ちをうまく伝えられずに、相手の気持ちが離れていくから。つながっていたいから、話したくない。話したところで理解してもらえるとはとても信じられないから。

 

女性は、諦めたくない。だから話したい。もしも話さないことがつながり続けられる唯一の選択肢ならば、それは受け入れられない。だからどうしても相手に話をしてほしい。

男性は、諦めたくない。だから話したくない。でも、話すことがつながり続けられる唯一の選択肢ならば、ならばいっそこの関係を諦めるしかない。だから話さないままでいる自分を受け入れてほしい。

 

 

 

どちらも、つながっていたい。

諦めたくないし、忘れられたくない。

 

 

男と女、私たちは全く異なるのでしょうか?それとも求めていることは同じなのでしょうか?

 

「あなたは私とつながっていたくないの?私と話をしたくないなんて!」

「つながっていたいよ。だけど話は出来ないんだ。」

 

 

 

男もつらいけど、女もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。

女もつらいけど、男もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。

 

 

ともだちになれたらいいのにね。