Open Your Mind, Open Your Heart

吉田あきのブログ

鬱とバイロン・ケイティのワーク

2017年も残すところあと1月ばかりとなりましたね。

2016年も大変な1年でしたが、2017年はじっくり深く苦しい1年でした。

前半は、それでも頑張ろう!と一生懸命アクセルを踏んでいましたが、夏にあるできごとが起こり、それがきっかけですっかり落ち込んでしまい、それ以来あまり動けなくなっていました。

 

英語で言った方が私的にはピッタリくるのですが、depressedの状態でした。
鬱、と日本語で書くとあまりピンとこないのですが、そういう状態のことかなと思います。

 

私のことは構わないで。いないことにしてください。

深い深い闇の中で動けない状態に何カ月もいました。

心臓がバクバクいって、恐怖で身体じゅうが痛いほどゾクゾクして、いっそ死んでしまった方が楽なのではないかと思う感じ、私なんて生きている価値がなく、世の中に必要とされてもおらず、すばらしい未来も待っていないし、やりたいこともない、ただ、1日が過ぎていくのをなんとか孤独の中でやり過ごす感じを、ただ毎日感じていました。

 

そんな時、今までは友達に会って愚痴ったり、話を聞いてもらったりして紛らわしていました。
でも、今年は、それが何か違う感じがして、ひとりでこの恐怖と向かい合っていました。

こわくて、こわくて、喉の奥が冷たくて、あまりの冷たさにやけどをしてしまいそうな感覚を味わいながら、1日をその感覚と共に過ごしたり、逃げたりして過ごしていました。

 

その時私は自分を否定する思考をたくさん持っているのですが、その中で大きくあったのは、「こんな私を誰にも見せることが出来ない」という恥の思いでした。

 

心のお仕事に携わらせていただいているのに、私自身がこんなに苦しんで死にそうになってもがいていることは恥ずかしい。
いい年をしていつまでも些細なことで傷つき、苦しんでいる自分が恥ずかしい。
ずっと思考と向き合ってきているのに、ちっとも楽になれない自分が恥ずかしい。

 

恥は、私の痛みの中で大きな役割を担っています。

 

だから、誰にも言わずに一人でただひたすら、痛みを感じていました。
多くの人に使うエネルギーがなく、ほぼ人にも会わない日々でした。

そうやって外部からのエネルギーを断つことで、落ち着きを取り戻しつつあった9月末に、ケイティの娘さんのワークショップに参加することになったのは、よいタイミングでした。
この旅はそれが何であるか特定は出来ないのですが、私の大きなアイデンティティをひとつ、ぐらっと揺るがしてくれました。
(なくなった訳ではありません。ぐらぐらっと感じた感じです。笑)

 

 

そして帰国後、この旅で得た体験を振り返りつつ、かなり気持ちは落ち着いていました。
しかし、ふとしたきっかけでまたあの苦しくて、さびしくて、辛くて、痛くていてもたってもいられない、そんな感覚がやってきて私はすっかり落ち込んでしまいました。

 

「また!?おいおい、いいかげんにしてよ!」私の反応はそんな感じです。
ようやく半年かけて落ち着きを取り戻したのに、今このタイミングでこれはないんじゃない?
よし、これに飲み込まれないようにしよう。
たくさんの頭の中の批判の声も聞こえるし、心臓も痛いし、孤独で死にそうだけれど、これに飲み込まれないで平気でいようと試みました。

 

それでも、とうとうバランスが取れなくなり、信頼できる公認ファシリテーターの友人からワークのセッションを受けました。
とにかく、どこから始めたらいいのか分からない位の混乱、涙ながらに話す私に彼は、その涙はなんて言っているの?と聞いてくれました。

 

私の涙は「こんな風に感じちゃダメなのに。落ち込んじゃダメなのに。」と言っていました。

そこで、「私はこんな風に落ち込むべきではない。」それは本当?と問いかけが始まりました。

 

この問いかけをして、大分気持ちが楽になりました。

置き換えのひとつに「私はこんな風に落ち込むべきだ。」というものがありました。
そしてその理由は、落ち込んでいるから、そしてその落ち込みを誘導している私を批判する声は、私に聞いてもらいたがっているから、でした。

今までは、批判の声が聞こえたらすぐに感じないように他のことに逃げたり、平気なふりをしたり、はたまた怖がったりしていましたが、その声を受け入れて聞いてあげることはしてきませんでした。だって、私を批判する声は怖いから、危険だから、そう信じてきたから。

 

これは、先日書いた「自分に負けない」の記事の続きのような感じです。
「自分を批判する声に負けない」
私の中の批判を怖がる部分が今、細かく具体的にどうしたら良いのかの、処方箋を欲しがっています。

その答えは、やはり自分の中にあります。
落ち着いてゆっくりと自分の中の声を聞くことが大切です。

 

でも、恐怖を感じているとき、難しいですよね。そんな時は、アドバイスや説教をしない、そして気持ちのいいことばで慰めてくれない、そんな人のサポートを受けてください。

アドバイスや説教が役に立たないのはもちろんですが、その場しのぎの優しいことばや慰めも実は長期的に見れば役に立ってこなかったのではありませんか?じっくりとあなたから出る答えを一緒に聞いてくれる、引き出してくれる、そんな方に話を聞いてもらってください。

 

さて、私の話に戻ります。
批判の声が聞こえてきたとき、私がしようとしていたのは、

その声が本当だと信じない。その声の内容を信じない。

だったのですが、実は、

その声を怖がらない。聞いてあげる。

ということが抜けていたようです。

 

これは、小さい頃に親に「やるなって言っているのに、何度も同じことして!何度言ったら分かるの!?」というように叱られたときに、

1.その内容を信じてしまう。(私は何度言われても同じことをしてしまうバカで、ダメな子)
2.その声を怖いと思ってしまう。(分かっているのに、同じことをしてしまうことを止められない、それを何度も繰り返し批判されるのが恥ずかしいし、嫌だ、怖い。)

だから、「分かってるよ!!!」と反抗してしまう感じと同じです。

 

でも、親の「何度言っても分からない子」は、本当は私ではありません。
親の中の私のイメージです。だから、いくら親が「あんたはバカだ!!」と言ってきても、それを信じなくていいのです。

そして「あんたはバカだ!」と言われ続けても、私がそれは自分のことだと信じなければ、怖くありません。
だから、お母さんはどうしてこんなことを私に言うのかな、お母さんは私がバカだと伝えたいのか、本当は何か違うことを伝えたいのかな?それともお母さんは苦しいのかな。

そうやってお母さんが苦しいのだというメッセージを理解出来たら、「ごめんね。」ってことばが出てくる気がします。
私の行為で苦しく感じるんだね。

だからって私の行為が変わるわけではないかもしれないけど、お母さんの声を受け止めてあげられる。

 

 

それと一緒なのかもしれない。

自己批判の声を、おびえずに、受け止めて聞いてあげる。
今は、それしか私に残された道はないような気がします。

 

そんなこんなで、鬱とワークについての動画を調べていたら、この動画をみつけました。

 

久しぶりに、このビデオを私が翻訳しながら皆さんと鑑賞するオンラインのイベントを行おうと思います。
そして、このビデオに出てくる思考を皆さんと一緒に問いかけていきたいと考えています。

皆さん自身の、深く落ち込んだ時の頭で何度もループしている思考を持ちよってもらってもかまいません。

 

 

深く落ち込んだ時、助言も、慰めもない中で、それでも私たちは大丈夫なことを一緒に探求してみませんか。

 

バイロン・ケイティの言葉を聴く会

 

吉田あきの個人セッションを受ける

 


男と女の違い

先日奥田民生さんの歌う「ラーメンたべたい」という曲を初めて聴きました。

サビの「女もつらいけど、男もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。」のところが心に響いて、この曲が好きになり何度も聴いていました。

 

まずは皆さんももしよかったらお聴きください。
(何故野球場で歌っているのか、何故木村カエラさんが出ているかの説明は論点がブレるので、ここでは割愛します。後で検索してみてください。笑)

この奥田さんの歌い方、すごく好きで何度も何度も繰り返し聴きたくなるのですが、実は、歌詞は正直意味がよく分かりませんでした。皆さんは分かりましたか?

 

そもそも男の心情を歌っているのに女ことばだし、「くたびれる毎日話がしたいから思い切り大きな字の手紙読んでね。」って誰に向けて言っているのかもよく分からないし。恋愛がテーマなのか、普段の生活で誰か伝えたい人がいるのか、あまり状況が飲み込めなくて、よい曲だけど、あまり共感出来ないでいました。

 

 

大好きな曲なのに共感できないのが嫌で、一体どういう意味を込めてこの曲を作ったのだろうと検索してみることにしました。
すると、この曲は元々矢野顕子さんの曲で、奥田民生さんは、元々の歌詞の「男もつらいけど、女もつらいのよ。」の部分だけ、男女逆にして歌っていたことが分かりました。

 

これが、矢野顕子さんバージョンの「ラーメンたべたい」です。

(ライブバージョンで最初のイントロが長いので曲だけ聴きたい方は2:20辺りから見てください。でも最初から観るとカッコいいです。)

 

不思議なもので、女性の立場からこの曲を聴くと、歌詞の意味がズシンとストレートに伝わってきました。

 

「男もつらいけど、女もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。」

「くたびれる毎日話がしたいから思い切り大きな字の手紙読んでね。」

「諦めたくないの。泣きたくなるけれど。私のことどうぞ思い出してね。」

 

おそらく人によって受け取り方は異なるのだろうとは思いますが私には、大切な男性のパートナーの心が離れていく感じがつらくて、つながりを保ちたくて話がしたくて、諦めたくなくて頑張って会話を持とうとするのだけれど、彼は話したがらない、そんな時の女性の心情を歌っている気がしました。どうにかしなくてはと焦るのに、なにも出来ない時のあの、幸せが目の前で崩れていくのをただただ何も出来ずに見ているしかない哀しくて切ない感じをラーメン食べることでなんとか乗り切ろうとしている、そんな曲に聴こえました。

 

不思議です。

奥田さんの時は、歌詞の意味がちっともさっぱり伝わってこなかったのに、です。

 

男女間で心がすれ違った時、女性はなんとか話すことで解決しようとするけれど、男性は話したがらない、あの感じが私自身の体験の中にあったからなのでしょうね。

 

 

けれども、ある男性が奥田さんバージョンの方に「原曲もいいけど、男としてはやっぱこっちだなぁ」とコメントしているのを見ると、男性には男性なりの解釈があるのではないかと思えます。

 

「女もつらいけど、男もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。」

「くたびれる毎日話がしたいから思い切り大きな字の手紙読んでね。」

「諦めたくないの。泣きたくなるけれど。私のことどうぞ思い出してね。」

 

 

分かり合えたらいいのにね。僕たち違いがあるけど、それでもともだちになれたらいいのにね。

君と話がしたいけど、うまく話せないから、手紙読んでね。

こんな風にうまくいかないと泣きたくなるけど、諦めたくないんだ、諦めたくないんだよ。

 

 

もしかすると男性側のメッセージはこんな風にも解釈出来るのかもしれません。

(男性側の解釈聞いてみたいです。)

 

 

同じことばを使っているのに、私たちが分かり合えないのは、お互いにことばに違う意味を乗せているからなのかもしれませんね。

 

女性側の立場からこの曲を男性が歌うのを聴いても、男性の気持ちはさっぱり伝わってこないけれど、

男性側の立場から男性がこの曲を歌うのを聴いたら、ばっちり分かり合えるのかもしれないです。

 

 

どちらも、同じことばをつかっているのに。

 

 

 

では、男女はそれぞれ同じことばに違う意味を乗せているけれど、本当に求めているものも違うのでしょうか?

 

女性は、話がしたい。だって理解することで相手とつながれる気がするから。

男性は、話がしたくない。だって話せば話すほど自分の気持ちをうまく伝えられずに、相手の気持ちが離れていくから。つながっていたいから、話したくない。話したところで理解してもらえるとはとても信じられないから。

 

女性は、諦めたくない。だから話したい。もしも話さないことがつながり続けられる唯一の選択肢ならば、それは受け入れられない。だからどうしても相手に話をしてほしい。

男性は、諦めたくない。だから話したくない。でも、話すことがつながり続けられる唯一の選択肢ならば、ならばいっそこの関係を諦めるしかない。だから話さないままでいる自分を受け入れてほしい。

 

 

 

どちらも、つながっていたい。

諦めたくないし、忘れられたくない。

 

 

男と女、私たちは全く異なるのでしょうか?それとも求めていることは同じなのでしょうか?

 

「あなたは私とつながっていたくないの?私と話をしたくないなんて!」

「つながっていたいよ。だけど話は出来ないんだ。」

 

 

 

男もつらいけど、女もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。

女もつらいけど、男もつらいのよ。ともだちになれたらいいのにね。

 

 

ともだちになれたらいいのにね。

 


自分に負けないとは?

よくアスリートの方が言う「ライバルは自分です。最後は自分との勝負です。自分に負けないことが大切です。」ということば。

そのことばの意味を皆さんはどう解釈していますか?

 

すごく練習をしてきたのに、本番の舞台で失敗をしてしまう、緊張してしまう、そんな自分の精神的な弱さに負けないこと、だと思っていませんか?

 

「私のバカ!なに緊張してるのよ!」と言うことが自分に勝つこと?

「頑張って緊張しないようにならないといけない。今まで練習してきた自分を信じれば出来るはずだ。自分を信じるんだ!」
という風に、私もずっと解釈していました。

 

でも、そう解釈していると、その緊張している弱い自分に勝つためには、「緊張するな!何をしているんだ!?今まで練習してきた自分を忘れたのか?自分の力を出し切れ!!!」と力でねじ伏せるような方法を取ることになります。昔の熱血少年漫画のコーチみたいですね。

 

日本の教育方針って昔からこのパターンが多いように思います。

子供のしつけも、頭ごなしに叱りつけることが多いですよね。まるで叱りつけたら次回から同じ間違いをしなくなるだろうというように。

でも、それは実は逆効果なことは、頭ごなしに叱りつけられた時の私たち自身の体験から知っていますよね。

 

 

「宿題しなさい!!何故早くしないの!?早くやれば楽なのに!!」

ということばは、「その怠け心、弱い心は間違っている!そんな自分に勝たないと人生の勝負に勝ち残れないのよ!頑張りなさい!その弱い自分を変えなさい!」に聞こえます。

 

 

 

親からされて嫌なことだったのに、私たちはいつの間にかそれを自分にし始めるものです。気付いたら親がいなくても自分の弱さを恥じてけなして、ダメ出しするようになっています。

 

 

これが、「自分に負けない」=「弱い自分に負けない」と解釈している状態です。

 

 

でも、本当の意味の自分に勝つ、自分に負けない、とは、もしかするとそうやって自分にダメ出しをしてくる方の自分に負けないということではないだろうか?と最近ふと気付かされました。

 

 

ともすると、ダメな自分をやっつけてやろう!と自分に厳しくなりがちな私たちですが、「弱い自分がダメなんだ!もっと頑張れ!もっと弱い自分を追い込んで痛めつけてそして力を出させよう!」というのは、短期的には効果を表しますが、長くは続かないものです。自分の中の無意識の反抗が出てきてしまうので。

厳しくすればするほど、「もうやりたくないな。」と怠けたくなりますし、そうするとそのような自分も罰しなければならなくてやることが増えますし、なにより心が波立ちます。

 

 

ただ心静か。今この瞬間に出来ることをするだけ。

これを、トップアスリートがやっているとは思えません。

心の波風が立たない状態、心が静かな状態、その状態には、自分自身の中で闘いがあるうちはたどり着けないのではないでしょうか。

 

では、彼らはどうしているのでしょうか?

 

 

 

「ダメ出しする方の私」の声が頭の中で流れてきても、それについていかないのではないでしょうか?

 

そうすると、緊張しているときでも「いいよ、緊張するよね。でも、これまで練習してきたからきっと大丈夫だよ。自分を信じよう。きっと出来るよ、さぁ行ってみよう!」と自分に優しくなりますし、自分の中での闘いがなくなります。

自分の中で闘いがなくなると、より多くのエネルギーを本来使うべきところに使えるようになります。だから結果が出しやすくなります。

 

 

自分に負けないとは、弱い自分に負けないのではなく、ダメ出しをしたがる、自分を批判したがる自分の声に負けない、その声を信じない、その声が聞こえても、自分を信じ続ける、自分に優しくし続けるということではないのかな、と思います。

 

 

 

これは、勝負の時のアスリートに限らず、普段の私たちに使える知識です。

 

何か出来ることがあっても「どうせ、私には出来るはずがない。」と思いがちなこと、ありませんか?

なぜそこまで自分を否定するのか分からないけれど、絶対にそうだと信じている、根拠のない自信のなさ、それは私たちを縛りつけるダメ出し大王様の声です。

「どうせ、お前には出来ないよ。」「どうせ頑張ったって無駄だよ。」

その声が聞こえたら、それにくっついていかない、信じないことです。

 

 

でも、そうは言っても簡単にはダメ出し大王様の声を信じないようにはなれないかもしれません。
小さい頃からダメ出し大王様の声が正しくて、精神的に弱くて大王様の言う「正しい」ことが出来ない自分の方が間違っていると信じてきたからです。

 

 

そんな時も、ダメ出しし始めた自分の声にくっついていかずに、優しく自分に忍耐強く向き合ってみてください。

それが、自分に負けないということではないか、ご自身で体験してみてください。

 

 

ちなみにダメ出しの声を消すことは簡単には出来ないでしょう。でも、声が聞こえても信じない、ついていかないことは可能なのではないかと思います。

自分に負けないとはどういうことか、この記事を読んだ後、皆さんご自身の体験からなにか浮かんでくる気付きがあればいいなと思います。

 

 

 

あなたのダメ出し、本当に絶対に正しいですか?

 

 

 

よい週末をお過ごしください。

吉田あき

 

 


正しさか、それとも自由か

“Would you rather be right or free?”
– Byron Katie
「正しくあることと、自由であること、あなたはどちらを選びますか?」
バイロン・ケイティ

 

先日、あまりワークに詳しくない友人に色々なワークの注意点を紹介しないまま、彼女の問いかけをサポートし始めました。

 

すると、ワークの問いかけの途中に、彼女は何故自分がその思考を持っているのか、自分でもその思考が役に立たないことはいかに分かっているのか、頭で理解しているけれど腑に落ちていなくてだから困っている、だけどそれが嘘だとは思えないといったことを私に説明し始め、結果、彼女は自分が今何をしているのかよく分からなくなってしまいました。

 

 

あなたもこんな体験したことありませんか?

最初は本当の自由を探求しようと思って問いかけを始めたはずなのに、いつの間にか自分の正当性をファシリテーターに向かって説明することに夢中になってしまい、とても置き換えの例なんてみつける気になれなくなる。
ファシリテーターに置き換えの例を提案されても、抵抗しか出てこない。ファシリテーターに自分の考えを手放せと言われているように感じてもうワークなんてしたくなくなる。

これはとてもよくあることです。

 

こんなとき、どうしたらいいのでしょう?
今日はそんな質問に答えたいと思います。

 

 

ワークが機能しなくなるのは自分を正当化するとき

ケイティは「ワークは自分を正当化し始めると機能しなくなる」(”The Work stops working when you start justifying yourself.”)と言います。

自由。そこには私もいない。

 

ワークをして私たちが自由を得るのは、全ての思考が分け隔てなく全て本当ではないことを本当に分かる時です。「この思考は持ったまま、こっちの不都合な思考だけ手放す為にワークしよう」というのは、本当の自由ではありません。

 

「自分を正当化する」ということは、つまり「私は正しい」という思考を持ち続けたままでいるということです。

 

“When you argue with reality, you lose – but only 100 percent of the time.”
Byron Katie
「現実と闘うと負けます。それはたった100%の確率だけど。」
バイロン・ケイティ

 

 

このことを説明しないままワークを始めたからか、彼女は「自分の正しさを正当化する」ことと「自由を探求する」ことの両方を同時に追い求めようとして、訳が分からなくなってしまったのです。

 

 

 

そんな時、ケイティはやさしく問いかけます。
「あなたは正しいままでいたいの?それとも自由になりたいの?」と。

 

また、ケイティはこうも言います。”Follow the simple direction.”「指示にただ従いなさい。」と。

 

ワークには、一見自分を縛るように聞こえるいくつかの「ルール」が存在します。
それは後には、もしかすると必要のなくなるものかもしれませんが、少なくとも最初はそれらがあることで、「自分の正しさを正当化し続けようとする」エゴに巻き込まれずに、問いかけの世界を探求することができます。

 

その中にあるのが、「ワークの途中でおしゃべりをしない、ただ質問に答える」、「ワークは、自分を正当化し始めると機能しなくなる」というものです。
また、「自分に対する批判のワークシートは書かない」というのもあります。

 

もちろん、これらはやらないと怒られるからやらないようにする「ルール」ではありません。
こうすると、あなたのワークが深まりますよという、少し我々より経験の多いケイティからの愛のこもった提案です。

 

 

ただ、シンプルに指示に従ってみてください。

正当化し始めている自分に気づいたら、ケイティのことばを思い出して、正当化するのをやめてシンプルに今聞かれている質問に答えてみてください。

きっと、いつかその意味が分かる日が来ます。

 

 

 

 


許しとは起きたと思った出来事が、起きてはいなかったことに気づくこと

“Forgiveness is realizing that what you thought happened, didn’t.”
Byron Katie

「許しとは、起きたと思った出来事が、起きてはいなかったことに気づくこと」
バイロン・ケイティ

 

最初にこのケイティのことばを聞いたのは、Forgiveness(許し)のワークショップの中でした。
このことばを聞いた私の反応は「そんなはずはない!それなら私は許したくない。」でした。

私には、起きたと思っていた出来事が本当は起きていなかったとはまだ受け入れることが出来ませんでした。

 


 

危ないじゃないですか!

先日、細い階段を2階から1階に向かって下りていた時、1階に立って私が下りてくるのを待っていた男性がおもむろに嫌な顔をして何か小さな声で言っています。よく聞いてみると彼は「危ないなぁ!」と私に向かって言っていました。

 

ただ階段を下りてきただけだと思っていた私には青天の霹靂でした。急に文句を言われて悪者にされた気がしてムッときました。

 

 

でも、何が危ないのだろう?と思って自分をよく見てみたら、私の左手首に傘の柄をひっかけて歩いていたので、その傘の先が下にいる彼の目線から見たら危なく感じたのかもということに思い当りました。

 

危ないじゃないですか

このとき、私の目から見た彼は「私を悪者にしたひどい人」から、「傘の先を自分に向けられて怖い思いをした人」に変わりました。

 

つまり、私の頭の中で起きたと思った出来事が、書きかえられました。

というか、起きたと思った出来事(「不当に責められた!」)は本当は起きていなかったのでした。

 

 

 


あなたが起きたと思っていることは、本当に起きた出来事ですか?

それとも起きたと思ったあなたの思考ですか?

 

 

 


理解を持って思考を受け入れる、それがワーク

頭に何度も現れてくるフレーズ

 

最近、ケイティのこのことばが何度も何度も浮かんできます。

When mind is met with understanding…

様々な場面で彼女がこのフレーズを言っているのを聞いたことがあります。

 

もっと響きがきれいな訳がありそうですが、あえて直訳するとこんな感じです。

「マインド(思考)が理解を持って受け入れられる時…」

 

ニョキニョキニョキ

英語がネイティブではないからか、この意味を分かっているつもりになっていた為か、意味が良く分からなかったからか、はたまた私の注意は他のところにいっていたからか、私の中ではいつもなんとなく聞き流していたフレーズでした。

でもこのフレーズがここのところ数カ月、何度も何度も私の頭に現れるようになりました。

 

 

バイロン・ケイティの著書、「ザ・ワーク」の中で、このフレーズはこのように書かれています。

“Once a painful concept is met with understanding, the next time it appears you may find it interesting.   What used to be the nightmare is now just interesting.  The next time it appears, you may find it funny.  The next time you may not even notice it.  This is the power of loving what is.  ”

Byron Katie, Loving What Is

 

日本語の訳は「ザ・ワーク」の第1章37ページにありますが、ここでは私が理解した直訳風に、私が訳してみます。

「一旦、痛みをもたらす思考が理解と共に受け入れられると、次にそれが現れた時、あなたはその思考を興味深いと思うかもしれません。かつて悪夢だったことが今は興味深いのです。次にそれが現れた時、あなたはそれを面白く感じるかもしれません。次にそれが現れた時、もしかすると全く気づきもしないかもしれません。これが、あるがままを愛することのもつ力です。」

 

 

先ほども書いたように、最初にこのことばを聞いた時、太字のところよりも、後の部分に興味が行ってしまい、太字の部分にあまり注意が向いていませんでした。

でも、日々を経てこの部分はワークをする際のとても大切な部分だな、と感じるようになりました。

だから今日はこのことを皆さんにお伝えしたくて、この記事を書くことにしました。

 

 

私の思考は悪者なの?

 

ワークって、思考を問いかけるじゃないですか、「それは本当?」って。
そうすると、その思考を否定しているようにも聞こえる時もあるものです。

 

特に、自分にとってその思考が苦しみをもたらす度合いが強ければ強いほど、そして、その思考が真実にしか聞こえず、身体中で反応しているような時、「それは本当でしょうか?」と聞かれると、「あいたたた!問いかけないで!」と抵抗したくなります。
その思考を持っている自分が否定され、非難されているような気がするからです。

 

私はよくワークショップで、「ワークって優しいんですよ。」とお話しするのですが、「信じられない!」という表情に会うこともよくあります。

 

そんな時、上のケイティのことばを思い出してみてください。

「マインド(思考)が、理解を持って受け入れられること」

このプロセスがワークなのだと。

 

 

あるワークの例をご紹介しましょう。

彼女は、旦那さんとのやりとりで、なんだかもや~っと嫌な感じを感じていました。

でも、それが何故なのか分からなかったので、ジャッジメント・ワークシートを書く時に、旦那さんの何が本当に嫌だったのか時間をとってよーくよーくみつけてみることにしました。

しばらく時間を取って見続けた後、彼女は「旦那さんが自分の言ったことをいつも聞いていないこと」が嫌だったことに気づくことが出来ました。

(ちなみにジャッジメント・ワークシートを書く時は、このプロセスとても大切です。頭に浮かんだ最初の理由に飛びつかないで、いくつもいくつも自分がひっかかっているのは何なのか、書き出してみることをお勧めします。私のワークショップ、個人セッションではこの部分をとても大切にしています。)

 

問いかけをしていると、「彼は私の言ったことをいつも聞いていない」と信じるとすごく腹が立つけど、その怒りを自分が感じないようにしていたことに彼女は気づきました。

腹が立ちそうになったら、一瞬のうちに自分の苛立ちを上手にコントロールして、「どうせ言っても仕方ないしね。」と感じないようにしていたそうです。

 

これって、私たちがよくやっているコーピングメカニズムですよね。

特に、感情的になりやすい大人のそばで育った子供たちは、自分の怒りを感じず、なかったことにして表面的には大人の言う通りに行動する術をどこかで身につけていますよね。もしも自分が怒りを表すともっと嫌な目にあうので、瞬時にその感情を隠してしまう。すると自分でも、そこに本当は怒りがあること、そして怒りを生む思考があることに気づけなくなってしまうんです。

 

だから、彼女はもや~っと嫌な感じは感じていたけれど、そこに苛立ちがあったこと、それは「彼が自分の話を聞いていない」と信じているからだということに気づくことが出来ないでいたのです。

 

ワークのプロセスのひとつにジャッジメント・ワークシートを書くことがあります。
ここは、自分でも気づいていない思考をじっくりとみつけてあげる場所なのです。

問いかけをしていくうちに、彼女は本当は自分は怒っていたこと、だけどそれを感じないようにしていたことに気づくことが出来ました。

 

これが、思考が理解を持って受け入れられることじゃないかと思います。

1)そこに存在していることさえも気づかれなかった思考がそこに存在していたことに気づき、そして2)その思考があると自分はイライラすることに気づき、3)問いかけの中で、それは何故かというと自分は細心の注意を払って努力していることを、旦那さんは全く努力していなかったからだということに気づいたので、

 

次に、またもや~と嫌な感じがしたときに、

 

「お。これはイライラだ。」「お。私はまた彼が努力していないことにイラッときているんだ。」「そしてイラッとすると私は感じないようにする傾向があるんだった。」と今回の問いかけの中で自分で気づいた「理解」を持って、自分のマインドと向き合うことが出来るようになります。
ちょっと自分のその傾向が面白く感じられるかもしれません。「お。またやってるな。」と。

 

思考は急に消えることなく、しばらく現れ続けるでしょう。

でも、この思考に関する「理解」があると、もう思考にふりまわされたり、恐怖のために考えないようにしたり、感情を押し殺したりする必要がなくなります。

 

暗闇で姿の見えない巨大なモンスターのように見えていたものが、明りをつけてみたらただの可愛いぬいぐるみだったみたいなことです。

 

この思考を持っている自分が怖い、感情的に反応してしまう自分が怖い、感じてはいけない、思考に気づいてはいけない、と抵抗していた自分が、

理解を持ってその思考や感情と向き合うと、なんて可愛くて、無邪気で、愛おしいのだろうと思えるようになる感じ、それがワークなのです。

 

だから「それは本当でしょうか?」と問いかける時、思考を悪者のように取り扱い、尋問するのではなく、

「どうしてそう思うの?」「それって本当にこわいことかな?」ってやさしく、理解をもって、聞いてあげてほしいのです。

 

 

ワークは、思考を理解を持って受け入れるプロセスだと、私の理解が追いついたから、ケイティのことばが響くようになったのかもしれませんね。

 

Enjoy The Work!

吉田あき


亡霊ちゃんのお話

ある素敵な女性のセッションにて。

 

美容院の約束を意図せずうっかり忘れてしまい、しかもそれが2回目だったので、美容院さんにもう予約は受け付けないと言われてしまったことをとても恥ずかしいと感じているというところからセッションが始まりました。

とにかく、そのことについて自分には何をする術もない、無力だと感じるとおっしゃってました。

 

これを聞きながら、私は自分のケースを思い出していました。

誰かに怒られた時、「もう手遅れだ!」と思うあの感じを。

怒られる前だったら怒られないように気をつけることが出来たのに。でも怒られてしまった後だと、もう過去に戻れないし、取り返しがつかない。だから、怒られてしまうと、なす術がない、だから私はだめだと思うあの無力な感じを、先日ワークで味わったばかりでした。

 

その時点では、彼女が何に苦しんでいるかの全貌は分かっていませんでしたが、私には、あの無力感と一緒だ、という気づきはありました。

 

この状態になると、相手に怒るのをやめて許してもらうしか、楽になる方法がない気がして必死に相手に許してもらおうとするのですが、でも、どうして私が怒られているのか分からないので、本当にお手上げになります。

 

彼女に、このように自分は気をつけようとしていたのに、失敗してしまい、自分はダメだと思った過去はあるかお聞きしたところ、小1の頃に、学校の先生に家庭訪問で「○○ちゃんは忘れ物が多いし、体育着に着替えるのが遅い。私ものすごく困っています。」と今まで先生にそんなことで怒られたことは一度もなかったし、自分でもそうだったと思っていなかったことを先生から母親に言われ、母親がパニックに陥り、「こんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだ」と怒られたことを思い出すとおっしゃいました。

以来、ずっと自分は気をつけていないと何かとんでもないことをする、心当たりもないのに母親に恥ずかしいと思われるような人間だと思い、違う人間になろうと頑張って生きてこられたそうです。

 

 

そして何か自分がミスをする度に、

自分はすごく気をつけているけれど、自分には気づかないうちに絶対に失敗してしまうダメな自分がいるから、どんなに気をつけていても無駄なんだ。私は無力だ。直しようがないと思っていたそうです。

 

 

そのことに関してワークの質問をしているときに、何度も、何度も彼女は「私には覚えがない、私の記憶とは違うことを先生は言っている」と言っていることが気になった私。

 

もしかしてそれって、自分の中にそんな自分がいるという認識はないけれど、周りの人がこういうあなたがいると言ったから、それを信じてしまったってこと?自分でも良く分からないうちにその子は自分だという新たな認識を作り上げてしまったということ?

もしかして、その子本当は存在しないのでは?

 

それに気づいたときの彼女は、「え~????いないのぉ?」と戸惑いながら嬉しそう。

 

でも、確かによーくよーく振り返ってみると、そんな子いなかったんです。
いることにして、なんとか辻褄を合せていたけれど、「どんなに気をつけていても自分の知らないところでポカをしてしまう自分」なんて本当はいませんでした。

 

 

あれれ?そうすると、なんだか不思議な感じ。

美容院の時は?

忘れないように気をつけようとしていた。 → 疲れて昼寝をしてしまった。 → 後から時間が過ぎていたことに気づいた。

「気をつけようとしていたけど、忘れてしまったダメな私」はどこにいるのでしょうか?

よーくよーく見ていくと、どの時点でその子は生まれたのでしょうか?時間軸で追いかけてみましょう。

 

  1. 忘れないように気をつけようとしていた。 ← この時点ではまだ存在しませんよね?
  2.  

  3. 疲れて昼寝をした。 ← ここ、ひっかかりやすいところですが、よく見てください。この時点に、ダメな私は存在するでしょうか?過去を振り返ると、どうもここに例のヤツ(気をつけようとしていたけど、忘れてしまったダメな私)がいそうなのですが、「あー。暑い。疲れた。ちょっと横になろう。」と思ったとき、本当に頭に美容院のことなんてないんです。その時、私はわざと忘れてしまったダメな私ですか?よーく観察してみることが大切です。この方も、よーく観察したら、そこに亡霊ちゃんはいないことに気づきました。
  4.  

  5. 後から時間が過ぎていたことに気づいた。 ← この時点の私も「ダメなやつ」ではありません。でも、この時点で「やばい!」と思った私は2の私を例のヤツにすることに決めました。気付かなかったけど、2の時点に例のヤツがいたらしい。あぁ~、またか、また例のヤツに私は乗っ取られて、重大なミスをしてしまった~。もう例のヤツはこうやって過ぎ去ったときに、現れるから直しようがないよ、本当に困るよ、とやり始めます。

 

私のところに来て起きた出来事を話してくださった時、とても恥ずかしそうにしていたのは、彼女の中に例のヤツがいることになっていたからでした。

 

 

この後、この方からメールが来て、こんなことが書いてありました。

 


吉田 あき 様

 

昨日はセッションありがとうございました😊

 

昨晩、もう一度「あ!美容室の予約の時間忘れた!😱」の場面をよ~く再生して観て観たんですね。 そしたら…私、悪い事したって思って無かった(爆)申し訳ないとか全然感じて無かった(笑)

 

そしたら、おっかしくて!!

1人でクスクス笑ってしまいました!

 

私は、(あの家庭訪問事件で)母があんなに打ちのめされてるのに、「全然悪いと感じない自分自身」が不謹慎に思えて、葬り去ろうとしてたんです。

 

美容室の事にしても、今まで、事の大小関わらず、誰かが私が関わる何かで、迷惑したり、傷ついたりしただろう

「そのような場面」

「私が悪いと思えなかった時」

あの亡霊?を発動させてそこに

「不謹慎な自分」

乗っけたというか、作り出したというか。

そういう作業を繰り返してました。瞬時に。

なんか、それはそれで人間の脳って凄いですよね。なかなか複雑な作業ですし。

とか感心したりして 笑

 

はあ~。本当にパワフルです。ワーク。

 

しかも、最近行き詰まり気味だったり、まだすっきりしてなかったワークネタの答えがここにあったと、今朝、不意に気が付いてびっくり。可笑しくなりました。

 

すごいなぁ。

吉田あきさんという素晴らしいファシリテーターが、私が電車で会いに行ける範囲にいたというラッキーさ☆感謝です。

あきさんファシリテーターになってくれてて、ブログやっててくれてて本当にありがとう…(*´∇`*)

 

 


 

こちらこそ、素晴らしい探求の旅に一緒に出ることが出来て嬉しかったです。ありがとうございました!私も多くを学ばせていただきました!

 

 

あなたにも、本当はいないのに、いることにしている亡霊ちゃんいませんか?

私はこのセッションの後、たくさんみつけました。

 

「私って気づかない内に人に怒られてしまうようなことをしてしまう人間だ!」という亡霊ちゃんを飼っていたせいで、誰かに怒られた時、自分に心当たりがなくても、それを自分のせいだと思ってしまう、これは昔から飼っていた亡霊ちゃんでした。

 

心当たりがないから、急に責められてもどの過去に戻って謝ったらいいのか分からない。

でも、亡霊ちゃんがいると信じているから、とにかく私が何かをしてしまったのだろう、と良く分からないけどものすごく罪悪感を感じる。

それなのに、どこをどう謝ったらいいのか分からないから、相手に責められてもうまく応えられない。

こうやって相手の責めている対象の自分が存在すると誤解していたから混乱していたのだなとこのセッションのお陰で私もこの構造に気づかせていただくことができました。

 

 

相手が私を責めていても、私の中に亡霊ちゃんがいなければ、変な罪悪感がないので相手に対して防御的になって攻撃をし返す必要がありません。

「そうあなたは感じるんだね。」と聞いてあげられるし、「私の認識は違いますよ。」と冷静に伝えることが出来る。

闘いが生まれません。はぁ~。長い旅路でした。

 

 

そして、「本当はいないのにいることにしてしまった亡霊ちゃん」は他にも様々な場面にいることにも気づきました。

 
例えば細い道ですれ違いざまに、こちらの顔も見ずに道を当然のように自分から道を先に通ろうとする人を見て、

「私は道を譲ってもらえない人」と瞬時に思うのも、

約束を何の連絡もなくキャンセルされた時の、

「私は大切に思われていない人」というのも、

 

実はこれらも全部、私が作り上げた亡霊ちゃんではないかと思うんです。

 

本当はそんな私いないのに、いることにして落ち込んでしまう…。

 

 

みなさんも、亡霊ちゃん飼ってませんか?

 

 

よい残りの週末を♪

吉田あき


過食嘔吐と「私はダメだ」その10

前回の続きです。

これまでの記事はこちらから。
過食嘔吐と「私はダメだ」その1
過食嘔吐と「私はダメだ」その2
過食嘔吐と「私はダメだ」その3
過食嘔吐と「私はダメだ」その4
過食嘔吐と「私はダメだ」その5
過食嘔吐と「私はダメだ」その6
過食嘔吐と「私はダメだ」その7
過食嘔吐と「私はダメだ」その8
過食嘔吐と「私はダメだ」その9

 

最終回です。

最終回は、まとめです。

 

最初にあったのは、「自分はダメだ」という自己否定。

それを消したくて、大丈夫にしたくて、完璧になりたくて、頑張り続ける。

でも、常に「自分はダメだ」と信じているので、頑張りが続かないし、気持ちがふさぐ。

そこで、自分を元気にしてくれるように感じる「食べること」に頼る。

食べると元気になり、頑張ることが出来るようになる気がするが、段々と太り始める。

それでは、完璧から外れてしまう恐怖が出てきて、自分の中の「自分はダメだ」の傷が刺激されるので、吐くようになる。

そうしていくうちに、「自分はダメだ」と思うから頑張る、無理して頑張るけど基本にある自己否定のせいですごく疲れるし落ち込む、だから食べる、食べるのがやめられないから、自分はもっとダメだと思う、自分はダメだと思うともっと無理を自分追い込む、苦しくなる、食べる、吐く、さらに落ち込むということがただただ繰り返されていくようになる。

 

これが過食嘔吐のサイクル。
というか、すべての落ち込みのサイクルかもしれません。
「自分はダメだ」という思いが刺激されることが起こると、何かに逃げたくなる、それに頼れば楽になる気がするから。
そうしているうちにそれから逃げられなくなる。
そして常にその時にずっと根底で自分の恐怖を生みだし続けている、自分を刺激し続けている思いがある。
それが「自分はダメだ」の思い。

そしてこの渦中にいると、「自分は摂食障害だ。私の問題は過食嘔吐だ。」目に見えている症状で自分のことを認識するようになる。(「自分は依存症だ」「自分は共依存だ」「自分はアダルトチルドレンだ」「自分はアルコール依存症だ」などなど。)

そして、この問題を解決すれば、楽になれるのではないかと考えるようになる。

そして、様々な方法を使って、食べることをやめようとしたり、食べている自分を責めたりして、「過食嘔吐」を治そうとするようになり、そしてもっともっと苦しくなる。

 

 

 

元々あった「自分はダメだ」に、「太ってしまう私はダメだ」も追加されているし「過食嘔吐をやめられない私はダメだ」も追加され、疲れ切ったあなたに私は言いたいのです。

あなたの問題は過食嘔吐ではありませんと。

 

 

あなたの問題は、あなたに問題があるという思考を信じてしまったことにあります。

本当は、あなたには何の問題もないのに。

 

 

私も、「どうせ私はダメなんだ」の思いをずっと持っていたので、とても苦しかったです。
様々な症状としてそれは、私の人生に現れていました。

拒食症、過食嘔吐、人を怖れる、人を喜ばせていないと不安、自分の声を聞くことが出来ない、いつも誰かの声を優先してしまう、お金の不安、将来への不安、共依存もしくは引きこもり…。

 

それでも、いつも食べることや、なんかしらのよろこびを私に与えることによって、私は誤魔化し誤魔化し、人生を「普通の人」のふりをして生きてきました。

 

 

今も、食べることはよろこびをくれます。テレビを観たり、頭をからっぽにさせてくれる娯楽が好きです。

 

 

でも、ワークを5年以上ほぼ毎日し続けてきたことによって、段々と、自分の声が聞こえるようになってきました。

最初は頭がぼーっとして何を言っているのか、何が自分を混乱させているのかも分かりませんでした。

 

それがワークをし始めて、自分の中にたくさんの怒りや混乱、悲しみや失望、たくさんのあきらめがあったことを許せるようになってきました。

 

そして、それらが生まれた原因をひとつひとつじっくりと時間をかけて探求していくことで、頭の中のおしゃべりが段々と静かになっていきました。

 

 

体育館で集会前に全校生徒が思いっきり雑談しているときのうるささ(締め切った反響する空間の声の響き)が、今は、もっとひとつひとつの声がはっきりと私に何を言っているのかが分かるようになりました。

声がなくなった訳ではありません。

でも声が何を言っているのかひとつひとつ聞くことが出来るようになると、四方八方からぐわんぐわんと色々な声が聞こえて混乱していた時より、対処が楽な気がします。

「なんで出来なかったんだ?」「何をしてるの?」「あれは出来たの?」「お前はバカだ。」「だからうまくいかないんだ」などのひとつひとつの声をとらえて、聞いてあげます。

 

 

こんな静けさをあなたにも、味わってほしくてバイロン・ケイティのワークをご紹介しています。

 

やり方はすべてここのサイトに書いています。

 

 

でも、最初は難しいと思います。頼ってください。

やり方、向き合い方をじっくりとご紹介します。

 

 

もし、興味があったら、個人セッションを受けてみてください。

そして、今回お試し的に、このような傾向の方向けのオンラインコースをつくってみました。

 

このコースが誰かのお役に立てたらいいなと思い、つくりました。

夜にオンラインで行うコースです。

ご興味があれば、詳細を観てみてください。

 

 

過食嘔吐と「私はダメだ」オンラインコース

 

長い続きものの記事を読んでくださってありがとうございました❤

 

暑い夏ですが、みなさまがお元気に過ごせますように。

 

吉田あき


過食嘔吐と「私はダメだ」その9

前回の続きです。

これまでの記事はこちらから。
過食嘔吐と「私はダメだ」その1
過食嘔吐と「私はダメだ」その2
過食嘔吐と「私はダメだ」その3
過食嘔吐と「私はダメだ」その4
過食嘔吐と「私はダメだ」その5
過食嘔吐と「私はダメだ」その6
過食嘔吐と「私はダメだ」その7
過食嘔吐と「私はダメだ」その8

 

今日は置き換えを体験しましょう。

 

置き換えとは何でしょうか?

置き換えは、最初の文章を色々な方法でひっくりかえしてみて、さらに、その置き換えた文章が、もしかすると最初の文章と同じく、もしくはそれ以上に正しいかもしれないことを探求していくプロセスです。

 

 

では、試してみましょう。

「○○さんは私のことを嘘つきだと思った。」
これが元にある私の思考です。

○○さんが私のことをどう思っているのか、まるで知っているかのようにそう信じています。

 

これをまずは、「私は、私のことを嘘つきだと思った。」とひっくり返してみましょう。
こうすることで、○○さんが私のことを「嘘つきだ」と思ったかもしれない同じ時に、実は「自分が」自分のことを嘘つきだと思っていなかったか?を見ていきます。

 

では、皆さんも前回の、自分がばれないだろうと思って嘘をついたことが、相手にどうもばれてしまったかもしれなくて、いたたまれない気分になっている場所に戻ってください。

前回の記事を読んでいない方はまずはそちらを読んでみてくださいね。
4つの質問

 

それではその場所に戻って、その置き換えた文章が、真実味を持つ、具体的な例を3つ挙げます。

ここでも、頭ごなしに「そんな訳ないじゃないか。」と決めつけずに、オープンになってその置き換えを聞いた時に、どう思うか、瞑想をしながら、自分の中に尋ねていきます。

 

 

その場所で、相手ではなく、「自分が、自分のことを嘘つきだと思った」と聞いた時に、どう感じますか?
その場面で、それが本当かもしれない例をみつけられますか?
じっくりと座ってその答えが現れるのを待ってください。
時間がかかっても大丈夫です。ゆっくりと時間を取ってみてください。

 

 

 

 

では私の例を挙げてみましょう。

  • これが事実。実際に嘘を付いたし、そのことを自分でも自覚している。それを隠そうとするから混乱するだけ。
  • この文章の方が真実味がある。○○さんにばれるより前に、嘘をついていることを恥ずかしいと思っている自分がいた。
  • ○○さんは何も言っていない。私がずっと頭の中で「嘘つき、嘘つき」と自分を責めているだけ。それが苦しくて、○○さんもきっと自分を責めているに違いないとすり替えた。

 

相手が自分にしていると信じてきたことを、実は自分が自分にしていたということを認めることは勇気のいることです。
自分を責めずに、ゆっくりと真実と向かい合ってみましょう。

 

 

 

 

では、他の置き換えもしてみましょう。○○さんと私の立場を逆にしてみます。

「私は○○さんのことを嘘つきだと思った。」

今まで、○○さんが私のことをそう思っているということばかりに気を取られていました。しかし、同時に自分も○○さんのことを嘘つきと思っていなかったでしょうか?これも、先ほどの場面に戻り、自分の中からその例が浮かんでくるのを待ちましょう。

 

 

 

 

 

私の例だと、

「私は○○さんのことを嘘つきだと思った。」

  • 「私に『あれどうなったの?』と聞いていたくせに、きっと私以外の人に聞いたんだ!ひどい。私以外の人に勝手に聞くなんて。私さえ黙っていたらばれないと思ったのに。」と勝手に、私の中で○○さんは他の人には聞いてはいけないという約束事を決めていて、それが破られたことを私は怒っていた。
  • 「私のことを嫌いになってはいけない。」という約束事を勝手に頭の中で○○さんに押し付けていて、嘘がばれた時の○○さんの顔を見た時に、「ひどい!私のことを嫌いになるなんて!嘘つき!」と思っていた。
  • 「この人はやさしいふりをしていたけど、こんな些細なことで人に失望する人なんだ。がっかり。」と勝手に○○さんに期待していた優しい人のイメージを裏切られて嘘つかれた気になっていた。

 

 

「私は○○さんを嘘つきだと思った。」その例が出てくると、自分の中の意識していなかった部分が出てきて、謙虚になれます。私も同じことしてました。勝手に怒って勝手に失望してました。ごめんなさいと。

 

皆さんの場合はどうでしたか?どんな例が出てきましたか?

 

 

 

 

 

では、他の置き換えもしてみましょう。意味をまるっきり反対にしてみましょう。

「○○さんは私のことを嘘つきだと思わなかった。」

きっと私のことを嘘つきだと思ったに違いないと信じているときに、実はそうではなかったかもとみていく勇気のいる置き換えです。じっくりとこの文章が、もしかすると実は本当かもしれない理由をみつけていってみてください。

 

 

 

 

私の例を紹介します。

  • ○○さんは私に「お前、嘘つきだな」なんて言ってこなかった。
  • ○○さんに確かめていない。だから確実ではない。「お腹すいたな」と思っているかもしれない。
  • ○○さんは、そのことを知ったかもしれないけれど、その結果、私のことをどう思ったかは私は本当に知ることが出来ない。

 

 

 

このように、よく事実を見ていくと、どうですか?

 

 

「○○さんが自分のことを嘘つきだと思った」という思考を信じ続けることは出来ますか?

 

 

 

もしここで、まだその思考が真実だとしか思えないのだとしたら、まだ深く探求が出来ていないのでしょう。もちろん、それもOKです。

でも、ほんの少しでも真実を知ると、先ほどまで絶対の真実だったことが、少し違って聞こえてきませんか?

 

 

 

こうやって一つ一つ、探求をしていくのが、バイロン・ケイティのワークです。
頭をやわらかく、オープンに向き合っていく必要があります。
決して楽なプロセスではありません。エゴは泣いて叫ぶでしょう。「私は絶対に間違っていないのに!」と。
それでも、そのエゴを超えたところで、自分が本当は知っていた真実に巡り合えると、心がよろこびます。ほっとします。

 

 

先ほどの、「私は私を嘘つきだと思っている」の例で、そうだった、私は最初から自分を嘘つきだと思っていたのだった、と気付いた時、私はほっとしました。
だったらばれた時に、それを隠さず、「そうなんです。ばれると恥ずかしいと思い嘘を付いていました。」と自分の真実(嘘をついている私)と、相手に見せる自分を一緒に出来る感じがしました。

 

 

自分の中で、次回同じようなことが起きた時に、はたして私は嘘をつくかな?そして例えば嘘をついたとして、それがばれた時に、それでもそれを隠し続けるかな?と楽しみになりました。

 

 

バイロン・ケイティのワークは「ワーク(一仕事)」と言われる位ですから、簡単なプロセスではありません
でも、だからこその効果は驚くほどのものです。

これがしつこく信じ続けている思考にワークを使って探求していくことをお勧めしたい理由です。

私が身を持って、その効果を体験しているので、自信を持ってお勧めできます。

 

 

では次回に続きます。おそらく最終回です♪

 

 


過食嘔吐と「私はダメだ」その8

前回の続きです。

これまでの記事はこちらから。
過食嘔吐と「私はダメだ」その1
過食嘔吐と「私はダメだ」その2
過食嘔吐と「私はダメだ」その3
過食嘔吐と「私はダメだ」その4
過食嘔吐と「私はダメだ」その5
過食嘔吐と「私はダメだ」その6
過食嘔吐と「私はダメだ」その7

 

ワークシートが書き終わったら、質問1の文章から順に4つの質問を使って探求を始めていきます。

 

それでは実際に問いかけていきましょう。
実際にはご自分の書かれた文章を使って問いかけていきますが、今は前回から続いている文章を使っていきます。

「○○さんは私のことを嘘つきだと思った。」

 

 

では、一緒に探求を体験していきましょう。ただ、読むだけではなく、ご自身でも質問に答えていってみてください。時間をとってゆっくりとご自分の答えが出てくるのを待ってください。

 

 

 

 

 

 

 

まずは、ご自分の過去で、誰かにきっとばれないだろうと嘘をついたことを、後からその人が知ってしまった時の、恥ずかしさを感じた出来事を一つ思い浮かべてみてください。そして目を閉じて一つ一つの質問に頭ではなく、瞑想をするように答えていってください。

 

 

「○○さんは私のことを嘘つきだと思った。」

それは本当でしょうか?

 

十分に時間を取って、出てきた答えがはいなら次の質問にいきます。
いいえの時は次の次の質問にいきます。

 

 

 

「○○さんは私のことを嘘つきだと思った。」

その考えが絶対に本当だと言い切ることは出来ますか?

 

 

ここでも目を閉じてじっくりとその場に戻り、自分自身の「知ってる」と思っているエゴの部分を超えた答えを尋ねてみてください。本当に、あなたは○○さんが考えていることが分かりますか?○○さんはそう言ったのですか?本当に自分の考えが正しいと言い切れますか?

 

「はい」か「いいえ」で答えます。

 

 

 

 

次に尋ねるのはこの質問です。

「○○さんは私のことを嘘つきだと思った。」

その考えを信じる時、どう反応しますか?何が起きますか?

 

 

 

目を閉じて、自分がどんな反応をするのかを答えてください。どんな感情が出てきますか?
身体の感覚はどうですか?どんな過去や未来を見ていますか?自分のことをどんな風に見ますか?相手にどんな風に接しますか?

これが、あなたがその思考を信じているときに起こることです。

もしかすると、心臓がバクバクとなって、汗が出てきて、恥ずかしくて相手と目が合わせられなくなって、もう相手は自分といたくないと思うだろうという未来を見て、自分のことを嘘つきで恥ずかしい人だと思い、自分のことを嫌いになって責めて、そして何か食べたくて仕方なくなるのではないですか?

その人に恥ずかしさの為に、顔が合わせられなくなって、会う度にやましい気持ちになって、距離を置くようになる。「この人に絶対に嫌われた!」と思い、それを思い出す度に後悔して、自分を責める。「こんな嘘つかなければ、この人はまだ私と一緒にいてくれたのに」と思うと悔しくて仕方がない。自分が全部壊してしまったように思う。自分は嘘つきだと見るので、人生においても何故か正々堂々と生きられないところを感じる。いつも胸の中にしこりのように、「私って恥ずかしい」という思いを持ち続けていて、自分を責めている。。。など、

 

ご自分の反応をよく観察して、答えてください、その考えを信じていると自分がどうなるのかを。

 

 

 

 

自分の反応を全て出し終えたなと思ったら、次の質問に動きます。

 

 

「○○さんは私のことを嘘つきだと思った。」

その考えを信じていなければあなたはどうなりますか?

 

 

頭で「はいはい、なかったら楽ですよ。」とやるのではなく、本当にその場に戻り、その考えは浮かんでくるけれど、それを信じていなかったら、自分はどうなるのか体験してください。

 

 

その考えを信じていなかったら、

私は、まず息が出来るようになります。「もしかして△△のこと知っちゃった?」と聞けます。
「すごく恥ずかしくて言いたくなかったから嘘ついたけど、知られた方がずっと恥ずかしいね。」「私のこと失望した?嘘つきだと思った?嫌いになった?」と聞きたいことを聞けます。

そこに存在出来るようになります。先ほどまでは、私はその場から今すぐに離れて消えてしまいたかったのですが、今は、自分はこういう風に感じているけれど、貴方はどう感じていますか?とまっすぐ相手に尋ねることが出来ます。

 

嘘をついた私を責めたり、隠したりせずに、そこに居させてあげられることが出来ます。
嘘がばれて恥ずかしい私を隠さずにその人に見せることが出来ます。

それはとても安らかな感じです。自分を隠さないですむことをずっと私は求めていたような気がします。

 

 

皆さんも、ご自分の答えを自分の中から聞いてください。

 

 

 

 

次回は置き換えをしていきますね。

 

また新たな一週間の始まりですね。私は、朝8時からあるコースを受けています。
朝早くに始まると一日が長くて良いです!宿題も多いけど、楽しいです♪

 

よい一週間を❤

吉田あき